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ある晴れた朝、シルヴィアは、いつものように小さな庭を箒で掃いていた。 家族は帝都へ出かけ、自分は一人残されながら、箒の音が響くだけ。 今頃、煌びやかなドレスを着て、豪華な食事を楽しんでいることだろう。 (わたしには生涯、縁のない世界だわ……) そう思いながら、せっせと清掃を続けていると、突然、背後から何者かに布で口を覆われ、甘い香りを嗅がされた。 シルヴィアは訳がわからず、箒で必死に抵抗し、近所の気配にすがろうと手を伸ばす。 (いや、誰か助けて……!) 叫びは届かず、甘い香りで視界が歪む。 やがてバサッと箒が手から離れて地面に落ち、シルヴィアの意識は深い闇へと落ちていった。 その後、目が覚めると、シルヴィアはなぜか揺れる馬車の中にいた。 やがて馬車は止まり、窓から外を見る。目の前には壮麗で煌びやかな宮殿がそびえていた。 「目覚めたか。降りなさい」 隣に座っていたローブを羽織る男に促され、シルヴィアは馬車から自分の足で降り、訳の分からないまま歩かされ、宮殿の扉前に連れて行かれる。 そこには、深紫の長髪を真っ直ぐに切り揃えた厳格な雰囲気の青年が立ち、待っていた。 すると、その青年はシルヴィアを見るなり、驚く。 「お前、違うではないか!」 「てっきりこの娘が聖姫かと……」 自分はどうやら、リリアと間違われて人さらいに合い、連れてこられたらしい。 「連れてきたものは仕方ない。この娘を置いて、お前は下がれ」 ローブを羽織る男は青年の命令通り、この場からすぐ姿を消し、青年は一瞬、わざとらしくため息をつき、肩をすくめる。 「間違えられて可哀想に、なんとも不憫なことだ」 青年の声には同情が滲んでいるようで、どこか他人事のような冷たさがあった。 やがて、青年が名乗る。 「こちらの手違いで申し訳ありません。私はハドリー殿下の側近、リゼル・ヴィットであります」 彼の声は滑らかだが、どこか冷ややかな響きを帯びていた。 シルヴィアが不安に押しつぶされそうになりながら立ち尽くすと、リゼルは「おや」と小さく声を上げ、顔をじっと見つめてくる。 その視線はまるで値踏みするように鋭く、シルヴィアの心臓が跳ねる。 リゼルは片手で自分の顎を軽く掴み、薄い笑みを浮かべながら何やらぶつぶつと独り言を呟く。 自分は一体どうなるのだろう? シルヴィアが不安に思うと、リゼルは頷く。 「ふむ、これは化けるかもしれない……いや、しかし、これはこれで面白い展開だな」 その口調には、どこか芝居がかった軽薄さと、状況を楽しむような不気味さが混ざっていた。 シルヴィアが硬直する中、リゼルは一歩近づき、まるで秘密を共有するかのように声を低くした。 「時間がありませんので、単刀直入に申し上げます」 「花嫁の身代わりになれ、さもなくば、そなたは斬られる」 シルヴィアの息が詰まる。 リゼルは彼女の反応を観察するように目を細め、続ける。 リゼルの説明によれば、10年前の厄災では、現在の皇后が聖姫として戦ったことで皇国を救い、厄災から免れた。 だが、聖姫の力が衰えつつある今、皇太子ハドリーに聖姫の花嫁を迎えることが緊急の課題となり、急務でもあった。 更に、厄災まで日にちが迫って来ている為、聖姫の力を必要に迫られ、リリアの聖姫の評判に目を付けた皇室は、彼女を花嫁として迎えるべく何度も使者を送っていたが、父の曖昧な態度に業を煮やし、強行手段に出たのだという。 自分を身代わりとして嫁がせ、差し出すことは、やはり伝えられていなかったのね。 リゼルは同情するような目でシルヴィアを見たが、その口元には微かな嘲りが浮かんでいた。 「この後、殿下に会って頂きますが、人違いとわかれば、すぐさま、そなたは斬られて生きて帰れない。生き残る為には、身代わりの花嫁になるしかない」 シルヴィアが震える中、リゼルは彼女に顔を近づけ、囁くように言った。 「だから、どんなに辛かろうと殿下にこう懇願するんだ。『どうか私を花嫁にしてください』と。良いな?」 リゼルの言葉に、シルヴィアは逃げ場がないことを悟った。「ハドリー殿下がいらっしゃったわ」 「お隣のシルヴィア様は花嫁候補だというのに庶民の出だとか。ハドリー殿下もお気の毒だな」 会場――彩る華やかな装いの大広間で令嬢や貴族達の囁きがざわめき、陰口が飛び交う。 そんな中、シルヴィアの視線がリリアとその継母ブライアの姿を捉える。 ふたりは自分には目もくれず、ハドリーの端麗な容姿に釘付けのよう。 シルヴィアが胸に小さな棘を感じた瞬間、重厚な扉が軋む音をたてて開き、皇帝アシュリーが長いマントを靡かせ、大広間に入ってきた。 (このお方がアシュリー皇帝……リンテアル皇国の最高権力者。清めの力を超える神力と、未来を映す光をも見通せることができるとリゼル様から事前に聞いていたけれど……まるで神そのもののような輝き……) 皇帝は大広間を見渡し、威厳ある声で告げる。 「皆の者、よくぞ、我が宴にまいった。今宵は共に楽しもうぞ」 皇帝の言葉を合図に、宴が始まった。 そこへ、騎士長フェリクスがハドリーに近づいてくる。 「ハドリー殿下がまさか皇帝の宴に出席するとは」 ハドリーは冷ややかに返す。 「フェリクス、剣の稽古を更に厳しくしてほしいようだな」 シルヴィアが2人のやり取りを静かに見守っていると、皇帝がこちらへ歩み寄ってきた。 フェリクスがきりっと姿勢を正し、「陛下」と呼びかける。 「ハドリー、フェリクス、楽しんでいるようで何よりだ」 皇帝は穏やかに笑い、視線をシルヴィアに一瞬移し、再びハドリーに視線を向けた。 「して、ハドリー、そちらが花嫁候補か?」 「はい」 ハドリーが短く答える。 「アシュリー陛下、お初にお目に掛かります。シルヴィア・ロレンスにございます」 シルヴィアは緊張を押し隠し、深々と頭を下げた。 「顔を上げよ」 皇帝の声は柔らかく、シルヴィアは視線を上げてその温かな眼差しと対峙する。 「シルヴィア、ようやくこのように対面でき、嬉しく思うぞ」 (なんて優しく暖かな声……) シルヴィアは胸が高鳴る。
* * * 「――あの、今、なんとおっしゃられましたか?」 深夜、書斎に静寂が漂う中、シルヴィアは思わず問い返した。 「4日後に開かれる皇帝の宴に、共に出席してもらう」 シルヴィアの心が波立つ。 皇帝の宴に自分も? シルヴィアは信じられない気持ちで、ためらいがちに尋ねた。 「わたしがそのような場に出席しても、宜しいのでしょうか……?」 「皇帝直々の命令であるから問題はない。今回の宴は晩餐会となり、特別にリリアも出席する」 シルヴィアは言葉を失い、身体が凍りついたように動かなくなる。 ――――ああ、ついに終わりの時が来てしまった。 ハドリーのそばに、ほんの少しでも長くいるために、帝都から戻って以来、一層雑務に励んできたのに。 これまでのハドリーとのすべてを無に帰すかのような予感がシルヴィアを包み込んだ。 「そんな暗い顔はよせ。皇帝の宴には必ず出席しろ、良いな?」 「かしこまりました……」 シルヴィアは胸に渦巻く思いを抑え、静かに答えた。 * * * 4日後の当日、シルヴィアは玄関先でハドリーと対面する。 (皇帝の宴に出席するのだから正装なのは分かっていたけれど、殿下が帝都の時よりも更にかっこいい……) 「なんだ? 私の格好がおかしいか?」 ハドリーの声に、シルヴィアはハッと我に返る。 (何を直視しているの……) 「い、いえ、とても良く似合ってらっしゃいます」 シルヴィアは、つい口を滑らせ、内心で焦る。 するとハドリーはふいっと顔を背けた。 (ああ、出しゃばったことを言ってしまった……) 「お前も、まあ、悪くないな」 ハドリーの言葉を聞き、シルヴィアの頬に熱が灯る。 (分かっている。新しく仕立ててもらった正装のドレス姿のわたしをただ見るに耐えるという意味だと。自惚れてはだめ、なのに……) 「行くぞ」 「はい」 その後、シルヴィアはハドリーと同じ馬車に乗り込み、やがて馬車が動き出すと、向かい側に座るハドリーが小さく息を吐いた。 いつもならハドリーは自ら
* * *「これは事実か?」2日後、ハドリーは書斎の席でリゼルから手渡された数枚の書類に目を通しながら、静かに問う。「はい。教会の記録庫に保管されていた書類であり、内容に誤りはないかと。加えて、雇った者からの情報によれば、シルヴィア様は家族から虐げられ、牢のような暗い部屋で暮らしていたようです」リゼルが淡々と説明し、報告すると、ベルは顎に手を当て、思案するように頷く。「なるほど。シルヴィア様が洗濯や掃除に最初から手慣れておられたのは、そういった事情からでしたか」ハドリーは眉をひそめ、ベルに視線を向ける。「ベル、なぜお前がここにいる?」「リゼル様を脅し頼みました。シルヴィア様の専属教官メイドとして、当然知る権利はあるかと」ハドリーは、はぁ、とため息をつく。「まあ、いい。リゼル、他に情報は?」「はい。一点、気になることが。シルヴィア様は時折、近くの森を訪れていたそうです」「森、ですか?」ベルが首を傾げる。「シルヴィア様は以前、本で薬草の知識を得たとおっしゃっていましたが、森で実際に薬草を摘んでいたなら納得です。だとすると、やはり、シルヴィア様が薬を…?」ハドリーは書類に目を落とし、静かに言う。「リゼル、ベル、書類を詳しく確認したい。少し一人で考える時間をくれないか?」「かしこまりました」ふたりは一礼し、書斎から出ていく。そして書斎に静寂が戻る中、ハドリーは教会の記録庫の書類に記された内容を読み進める。そこにはシルヴィアの悲惨な過去が綴られていた。10年前、母ルーシャを病で亡くし、父ラファルが再婚。継母ブライアと継妹リリアにより虐げられ、父親には無関心な態度をされ、目を逸らされる日々。まさか、家事全般を押し付けられ、牢のような部屋で生活を送っていたとは。聖姫の力を持つリリアがいなければ、ロレンス家は皇国の援助金で裕福になることもなかっただろう。とはいえ、この仕打ちはいかがなものか。あまりに非道な行為だ。しかし、書類が事実ならば、シルヴィアが「無能」であること
* * *やがて、シルヴィアとハドリーを乗せた馬車が動き出す。リゼルとベルに守られながら、ハドリーが無事に戻られるよう心の中で祈っていたが、一体何があったのだろう。(リゼル様とベルは馬車から降りた時、殿下と何かを話していたようだけれど……)「あの、で、殿下……」「そんな顔をするな。何者かに付けられていたようだが、私が対処した。心配するようなことは何もない」「わ、分かりました……」魔形ではなかったらしい。それでも、民が不安がっていたように、厄災が刻々と近づいてきている。今回はハドリーに斬られずに済んだけれど、いつその刃が自分に向けられるか分からない。だからこそ、せめて斬られるその時まで、少しでも役立つ事をしよう。ハドリーのそばに、ほんの少しでも長くいるために――――。* * *「陛下、只今帰還いたしました」ハドリーが皇帝の間の扉前で恭しく告げる。「入ってまいれ」皇帝の重厚な声が内側から響き、衛兵が厳粛に扉を開いた。ハドリーは皇帝の間へと進み、長い深紅の絨毯の上を歩いて行き、玉座へと歩み寄る。そして、皇帝の前に跪き、頭を下げた。「ハドリー、頭を上げよ」ハドリーが皇帝を見上げると、皇帝はハドリーを見据える。「帝都の偵察、ご苦労であった。結果を申せ」「はっ、ご報告申し上げます。厄災の刻が近づいている影響からか、魔形から身を守る指輪が高値で取引されているようです。また、帝都の外れでは夜な夜な光る霧が目撃され、民の間に不安が広がっているようにございます」皇帝は静かに頷き、わずかに目を細めた。「そうか、よく分かった」答えた直後、皇帝の柔らかな面持ちが消え、厳然とした表情に変わる。「して、シルヴィアはどうであったか?」「花に触れた瞬間、微かに発光致しましたが、鋭い音とともに彼女に痛みが走り、拒絶するような反応を示しました」「ほう。それは何か特別な力を秘めている証かもしれんな。こちらで詳しく調べさせよ
「……あ、その、申し訳ありません! 足を止めて余計な事を……」「…………」「で、殿下?」ハドリーはハッと我に返る。(私としたことが。何をぼうっとしている)「いや、いい。これから、聖姫の力と関わりのある花が咲いている花畑に向かう。着いて来い」ハドリーは一歩踏み出し、シルヴィアを促した。* * *やがて、シルヴィアはハドリーと共に花畑に辿り着く。そこは一面に広がる色とりどりの花々が、朝露に濡れてキラキラと光を反射し、そよ風に揺れるたびに甘く清らかな香りが漂う場所だった。そのあまりの美しさに、シルヴィアの心は浮き立ち、言葉を失う。陽光が花弁の隙間を通り抜け、地面にまだらな光と影を落とし、柔らかな草が足元でかすかにざわめく。シルヴィアはそっと手を伸ばし、花の繊細な花弁に触れると、ひんやりとした感触が指先に広がった。だが、ふと我に返り、シルヴィアは息を呑む。(今日の振る舞いが帝都での任務に影響するのでは……。しっかりしなくては)それからしばらく歩くと、大きな花壇の中に凛々しく大きな花が咲いている場所に辿り着いた。「で、殿下、この場所が聖姫の?」「そうだ。花に触れてみろ」ハドリーの落ち着いた声が、そよ風に混じって響く。「はい」シルヴィアはゆっくりと膝を折り、地面にしゃがんだ。 何もない自分が触れても、きっと何も起こらないだろう。これで自分はこの場でハドリーに斬られるかもしれない。手のひらにじわりと汗が滲み、呼吸がわずかに乱れる。それでも、ハドリーに斬られる運命が待っていたとしても――ハドリーと初めて帝都を訪れ、ふたりで食事をして、花を見て、もう少しだけ、ハドリーのそばにいたいと思ってしまった。(どうか、自分に、わたしに、もう少し時間をください)指先が震えながら花に触れ、シルヴィアは祈るような気持ちでそっと目を閉じた。
* * *その後、シルヴィアはなんとか無事にハドリーとの昼食を済ませると、同じ馬車で庭園へと向かい、御者の執事が手を添え、ハドリーが先に庭園付近に到着した馬車から降りる。すると街の女達が驚きの声を上げた。「あの方がハドリー殿下!?」「美青年でしたの!?」街の男達もまた、ハドリーの端正な顔立ちに目を奪われ、驚嘆の表情を浮かべる。覚悟はしていたけれど、ついにハドリーの素顔を知られてしまった。シルヴィアは複雑な気持ちを抱きながら続けて馬車から降りる。「おい、見てみろ! 見たことがない令嬢と一緒だぞ!」街の男が声を上げ、すぐに別の声が囁かれる。「……なぜ、薬やパンを民に施してきたリリア様がハドリー殿下のお隣でないの?」「……リリア様こそ、ハドリー殿下の隣に相応しいというのにねえ」シルヴィアは顔を伏せ、街の女達の陰口に胸を締め付けられる。(そのようなこと、わたしが一番分かっているわ……)「何をしている、行くぞ」ハドリーの声に、シルヴィアはハッと顔を上げる。「は、はい……」今は俯いている場合ではない。しっかりしなくては。シルヴィアは気を取り直し顔を上げ、ハドリーの隣を歩き、庭園の入口へと進む。そこでは案内人の男性が恭しく一礼した。「ハドリー殿下、お待ちしておりました。初めてお目にかかりましたが、ああ! この庭園に咲く、そう! ブルーローズの花のようにお美しい!」案内人が一人歌劇のように声を張り上げ、シルヴィアは固まり、ハドリーはどん引いた表情を浮かべる。その後ろでは、リゼルが表情一つ変えず厳格な雰囲気を保つも笑いで肩を震わせ、ベルは冷めた目をし、数名の護衛達も笑いを堪えるのに必死だ。「どうやら訪れた庭園を間違えたようだな」「ハドリー殿下、申し訳ございません! 今すぐ貴族専用通路までご案内致します!」* * *その後、案内人に導かれ、貴族専用通路